たつの工場の立地

たつの工場の立地

兵庫県たつの市揖西町南山3丁目8番地にあります。

現在当工場地区は山陽道龍野西インターチェンジに隣接し、西播テクノポリスへの玄関口になっています。

古墳時代

工場の前の道路を挟んで向かい側一帯は土師地区で古墳時代には土師器の製作集団、鍛冶集団が暮らしていた場所で、古墳時代の先端技術産業地区でありました。

(以下文書は兵庫県立歴史博物館『ひょうご伝説紀行 「たつの」のはじまり』から引用)

今から2000年近く昔の話です。出雲国(いずものくに=現在の島根県東部)に野見宿禰(のみのすくね)という人がいました。野見宿祢はたいへん力の強い人でしたが、学問にすぐれた、賢い人でもありました。

そのころ、大和国(やまとのくに=現在の奈良県)には、当麻蹴速(たいまのけはや)というこれもたいへん強い人がいました。相撲をとると、蹴速にかなう人はいません。

 「日本で俺にかなう奴いないだろう。」

蹴速はそう言って自慢していました。

 「だれか蹴と相撲がとれる者はいないか。」

そのころ国を治めていた垂仁天皇(すいにんてんのう)がたずねますと、家来のひとりが答えました。

 「出雲国に、野見宿禰という強い人がいるそうです。」

そこで天皇は、野見宿禰を大和国に招いて、当麻蹴速と相撲をとらせることにしました。二人とも力いっぱい戦い、宿禰は、みごとに蹴速をたおしました。垂仁天皇はたいへん喜び、野見宿禰は領地をもらって、天皇につかえることになりました。

そのころまでは、天皇のようなえらい人が死ぬと古墳という大きな墓を造り、まわりに家来たちを生きたままで埋めていたと言われています。

 宿禰は「いくらえらい人のためでも、人を生き埋めにして殺すのは良くありません」と言って、そのかわりに粘土で作った埴輪(はにわ)をおくように、天皇にすすめました。そこで、それからは古墳を造るときに、人や家や馬の形をした埴輪を並べるようになったと言われています。古墳のまわりの埴輪を、知っている人も多いでしょう。

さて、こうして活躍した宿禰ですが、やがてふるさとの出雲に帰ることになりました。ところがその途中、播磨国(はりまのくに)まで来たところで、重い病気にかかってしまいました。土地に人たちは、手厚く看病しましたがそのかいもなく、宿禰は亡くなってしまったのです。

宿禰が立派な人であることをよく知っていた人々は、とても悲しみました。揖保川(いぼがわ)の河原から山の上まで、村人が一列に並んで、手から手へ、石を運び、宿禰のために立派な墓を造りました。野原にたくさんの人が立ち並んで働いたので、その場所は「立野(たつの)」と呼ばれ、それが現在の「たつの(龍野)」のはじまりだと言うことです。

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